憲法9条と現実との矛盾。
それをそっちのけにするそのいい加減さが、
いかにも日本人らしいのではないか。

が、しかし、憲法9条は、「戦争を絶対悪」とした
日本国民の意識の象徴


GHQからの与えられたものなのに
とっくの昔に日本人の血と肉になった。


ほとんどの日本人の「戦争体験」の感想・総括は、
終戦からこの70年、少しも変わっていない。

つまり、「戦争はもうイヤだ。」「戦争をしてはいけない」という意識だけが、
現実から遊離して、完全に定着している様に思う。

だから日本人が戦争を語るとき、異口同音に述べるのは
「戦争はもうイヤだ。」「戦争をしてはいけない」というこの言葉だけなのだ。
私はこの言葉を語る日本人を「いかにも日本人的」だと思う。

つまりそれは、「侵略して他国民に多大な迷惑をかけた」ことも、
日本人が「ひどい目に遭った」ことも、一切ひっくるめて、「二度と戦争をしてはならない」と
言葉にしている事だ。
ここのところが、いかにも日本人的だと思うのだ。

そこには、「戦争だったからあれもこれも全て仕方がない。」という意識が根底にあり、
「原因究明や責任追及」という視点が完全に抜け落ちているように思われるからだ。

広島長崎の原爆被害を語るとき。
東京空襲の被害を語るとき。
兵隊として赴いた戦地から命からがらが生き延びた元兵士が戦争を語るとき。
そして、中国や東南アジア諸国を侵略し、多くのアジア人を殺戮したことも。

真珠湾攻撃とは、宣戦布告なしの日本軍のアメリカへの奇襲攻撃だった。
それによってアメリカに多大な損害と犠牲を出した。
それによって、第2次世界大戦が引き起こされたのだ。
また日ソ不可侵を約束した日ソ中立条約をソ連が一方的に破棄し、南樺太を
侵略し千島列島をも奪ったこと。また、ソ連と戦争をしていないのに、
たくさんの日本人がソ連の捕虜となり、極寒の地におけるシベリヤでの抑留生活を
強いられたこと。
このことを語る捕虜の人々。
沖縄戦を語る沖縄の人達。

これらの人達を含めた全ての日本人が戦争を語るとき、「戦争はもういやだ。」
「戦争をしてはならない」と「戦争反対」の言葉だけを口にするのだ。

こうしたことは、日本人の特性ではないかと思う。

他ならぬ「憲法第9条」は、そうした日本人の心情を形にしたものだと思うのだ

日本人には、恩讐を遠い彼方に押しやる特性がある様に思う。
悲惨な戦争の結果を前にして考えるのは、被害者も加害者の立場も無いという思想だ。

日本を破滅に追い込んだ戦前の軍部への怒りすらない。
戦争の原因や経過を全て超越して戦争そのものだけを「絶対悪」として認識し戦争を
位置づけている。
その結果が、憲法9条に対する特別な思い入れとなったように思う。

戦後70年。
GHQから与えられた憲法9条は、歴史的事実を超越して、完全に日本人の血となり肉となった。
「憲法第9条は日本人の信仰」にまで昇華した日本人の思想・感情なのだ。

だから改憲勢力が、仮にこの参議院選挙で3分の2をとったとしても、日本人の意識から
「戦争は絶対悪」=「憲法9条の認識」を排除することは出来ない。
従って、国民投票をやっても、憲法9条を変えることは出来ないだろうと思う。

が、しかし、ここで、滑稽と言わざるを得ない事象も日本人は背負うことになる

それは自衛隊の存在を肯定し、安保条約も肯定する日本人の姿である。

これは、昨今の中国や北朝鮮の行動を見れば当然の帰結であるが、
私がこれを滑稽に思うのは、多くの日本人は、そこに思い悩むほどの矛盾を感じていないと
いうことだ。

ちょうどこれは、家に神棚と仏壇が並びクリスマスには、クリスマスツリーが鎮座するそんな風景を
見ても日本人のほとんどは、全く違和感を覚えない。

外国人が驚くこの光景と憲法9条尊重と自衛隊存続・安保条約肯定の意識とが不思議に、
重なるところがあるのだ。
そして、それが日本人だ。日本人らしいと思うのだ。

以下、憲法9条を記しておく。
この条文を読んで、現実と対比して欲しい。

国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解 決する手段としては、
永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、 陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。
国の交戦権はこれを認めない」
(憲法第9条)


繰り返しになるが、改めて、思うことを述べる。

こうした矛盾が気になる人が多くなれば、憲法を現実に合わせようとして
「憲法改正論」が台頭するのは当たり前のこと。
矛盾のままでいいというこの曖昧さを日本人的だと言ったのです


おそらく、ドイツ人ならば、憲法通り、自衛隊を廃止するか、憲法9条と前文を変えるか、
いずれかにしただろうと思う。
ドイツ人は、原理的に物を考えるはずだと思うから。