どんどん、攻めてくるなあ。 とうとう、学校に「教育勅語」が・・・・ |
森友学園から始まった教育現場における「教育勅語」
テレビに流れた教育勅語を暗唱させられる園児達の姿。
まず問題になったのは、森本学園における保育園児の教育勅語の暗唱。
意味もわからず、暗記させられる園児を哀れに思った人もいるはずです。
これはひどいなと感じた人も多くいると思います。
私などは、「かわいそうだな。あんなことをさせられて」と思いました。
あんなところに、通わせている保護者の心境を疑いたしました。
教育勅語を肯定する人たちが言う理由を聞くたびに、
「なんだ、それしか言えないのか」といつも、思ってきました。
今までも、何度も、何十回も教育勅語を肯定する人たちの「理由」を聞かされて
きました。
その度に聞く理由とは、異口同音に「父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。
夫婦は仲良くしなさい。友達を大切にしなさい」などと書かれている」からという。
「それだけかい?」と思います。
そんな程度のことなら、あちらこちらに山ほどあるのに、なぜ、教育勅語に
しかないかのようなことを言うのだろうと不思議に思いました。
そして逆に、仮に「それだけが書かれているもの」だったら、なぜ、わざわざ・・・、
衆院で排除の、参院で失効の決議(1948年)がなされたのか、と疑問が生まれす。
「父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさい。友達を大切に
しなさい」と書かれただけのものならば、これほど問題にされることはないはずだ
からです。
つまり、教育勅語を賛美する人々が理由に上げること以外にも、「問題にされる
内容」が書かれているから多くの人が、問題にするのではないか、と思います。
「教育勅語」に書かれている問題の言葉・・・とは・・・。
「教育勅語」には次の文言があります。
教育勅語には、いろいろな徳目を述べたあと、次のように書かれています。
現代語に翻訳すれば次のようになります。
「そして、もし、まさかの場合があったときは、正義心から勇気を持って・・・
永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。」
「朕(ちん)おもうに・・」で始まるこの「教育勅語」の「朕」とは、明治天皇のことです。
つまり、「私が思うには」と始まり、国民に「永遠に続く皇室の運命」を助けなさいと
書かれたものです。
日本は、この教育勅語によって、他国を侵略し、日本国民も、多くの犠牲者が生ま
れました。
つまり、「教育勅語の目的」そのものに、侵略戦争につながった重要な・危険な内容が
書かれているからでです。
「父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさい。友達を大切に
しなさい」とだけ書かれたものならば、これほどの批判をあびないはずだと疑問に
思うのが、通常の大人の常識ではないかと思います。
女郎にさせるときの 「説得の口上」と似ています。 |
むかし、貧しい農村や家の娘(幼女)が、奉公に出されたり、芸者にさせられたり、
中には、女郎屋に出されるとき、間に入った斡旋(あっせん)人が、決まって言う言葉が
あります。
「きれいな着物が着られよ。」「おいしいものが食べられる。」「親孝行になるん
だよ」等々言って、それなりに納得させて奉公に行ったり、芸者になったり、挙げ句の
果てには、女郎にされた人もおります。
私は、教育勅語に「父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさい」など
良い徳目があるから、「教育勅語」は、良いのだという説明(合理化)は、「きれいな着物が
着られる」から「おいしいものが食べられる」から、奉公に出ることは良いんだ。女郎になる
ことは良いんだと言っていることと、さほど変わらりません。
女郎とは、昔の売春婦です。
「父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさい」と書いてあるから
「教育勅語」は良いものだ」ということになりません。
なぜなら、「教育勅語」は、「永遠に続く皇室」のために戦えと教えているのが、
「教育勅語」です。
繰り返しますが、これは、「娘を女郎にするために、きれいな着物が着られるとか、おいしいものが
食べられると言っているのとその構造は変わりません。
まさか、と思っていました。 |
とうとう、ここまで来たのか、と思います。
この度、政府は「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまで
否定されない」と言いました。
日本の軍国主義化を進めようとする人たちにとっては、「まず、ここまで」と
いうというところでしょうか。とにかく着実に進めよう。
この雰囲気に国民が馴染んできたら、さらに次の一歩をと考えていることは確かです。
今までも、自衛隊関係、海外派遣問題、日の丸君が代問題と、あらゆる分野で、
「着実に一歩一歩」と政府の思う方向に駒を進めてきました。
慎重に、慎重着実にと歩むその忍耐強さと根気に脱帽します。
そして今回、いよいよ、教育勅語です。
まさか、と思っていました。
「まさか、「教育勅語」を肯定し、学校現場に持ち込むなど、いわゆる革新系論者の
いわば「脅し」と考えてきました。
しかし、とうとう、そうなるのか、という危惧でいっぱいです。
「まさか」と思っていたことが、次々行われてきています。
教育現場の中から、 「教育勅語は必要だ」と言い出す人が、 きっと出てくる。 そんな気がします。、 |
教育委員会や校長や上昇志向の強い教員たちから、「教育勅語は必要だ」とか、
「全てが悪いんじゃない。父母に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさいなど、
良いところもある」などと言い出す人が、近々、必ず出てくるような気がします。
特に、校長や教頭の管理職や教育委員会関係者から出てくるような気がします。
当然、一般教員の中からも出てくるような気がします。
そんな人たちは、今のこの雰囲気や流れを敏感に感じ取り、「先取り」をすれば、
しかるべきところからの「覚え」めでたくなり、得をすると感じているからです。
ですから、そう遠くない時期に、公然と「教育勅語」の良さを主張するような人が
多く出てくるような気がします。
人間は、ほんの一部を除いて、目の前の利益で、どんどん変わるものだからです。
私はそんな人を多く見てきました。